朱乃紅スキゾ日記

管理人朱乃紅の統合失調症の闘病記、アニメの日々の日記

今日日的考察(正気と狂気)

こんばんわ。今日は、まあまあいい一日だった。

仕事上がってから、友人に同人誌の表紙の絵を送ってもらい、しばらく話した後、

ギターレッスンに行って、先生に弦の張り方をもう一度教えてもらった。

まだ、弦も一人で張れないひよっこです。頑張ります。

アコギの弦は張れるようになったけど、ガットギターの方はまだやったことがない。

もうちょっとまじめに練習しなきゃだめだ。

では、今日は何を考えようか。

そうだね、正気と狂気について考えようか。

そんなこと考えるなんて、正気の沙汰なの?って思われるかもしれないけど、

一応正気です。なぜなら、私は常に正気と狂気の狭間で生きているからです。

こんなこと言いたくないけど、好きで狂気に向かっているわけじゃありません。

狂気という要素を人より少し多く持ち合わせているだけなのです。

誰でも狂気は孕んでいます。それを日常で披瀝するかしないかそれだけなのです。

とまあ、そんなことよりも正気と狂気について述べたいと思います。

狂気から語るのは難しいので、正気から述べていきます。

まず、正気とは何か。辞書で調べると、「平常の判断力を持っている状態。意識が確かなこと」とある。なるほど、意識が確かなことっていうのは、分かりやすい。

つまり理性が働いている状態だ。理性とは、これまた辞書によれば、「感情に溺れずに筋道を立てて物事を考え判断する能力」とある。哲学用語だとまた色々と解釈があるようだが、まずは人間がもつ客観的で合理的判断をする能力といえるだろう。

客観的で合理的、それは人間の理性に許された力だとは思うが、果たしてそれはどこまで通用するのか。人は、他人を害してはいけない、物を盗んではいけない、何かを壊してはいけないなどと、様々なルールを社会において有している。

だが、それを犯すものは後を絶たない。なぜだろう。客観的で合理的に判断したら、どう考えても割に合わないことをする。だが、犯罪が客観的で合理的な場合はどうだろうか。それをするのがその者にとって有益な場合がある。もちろん社会のルールに反している訳だから、結局は有益ではないのだが、その場では盗んだ金も人を害することも有益になる。であるならば、理性的とは善なる判断ができる場合のみの能力ではなくなり、狡猾に人を騙したり、傷つけたりすることも理性的な行為と言えるのではないか。普通、「正気の沙汰ではない」と人が言う場合、世にも恐ろしい犯罪を犯した者や考えられないような行動を起こした者に対してその言葉を使うことが多い。しかし、それならば理性的なまま犯罪を犯す者は狂気の沙汰なのか。ならば、狂気というものは、善なのか悪なのか。

では、ここからは正気から離れて狂気について述べよう。

そもそも理性的であるはずの正気が悪を含んでいるものになるのならば、狂気というものは巨悪であるのだろうか。

否である。それは、狂気を経験した者なら分かるかと思うが、狂気は限りなく正気に向かおうとした末の破綻なのである。

例を出そうか。私が知るところの狂気はフランス映画から学んだことが多い。

一つは文豪ビクトル・ユゴーの娘アデルを描いた『アデルの恋の物語』である。

アデルは、ある青年士官に恋をして振られてしまい、青年を追い続け最後に精神を破綻してしまうというお話である。アデルを演じたイザベル・アジャーニの演技が印象的だった。そしてもう一つも同じアジャーニが演じた『カミーユ・クローデル』である。こちらは、私の最も愛するアニメ作品『機動戦士Zガンダム』の主人公の

カミーユ・ビダンのモデルにもなった女性の話で、彼の有名な彫刻家ロダンの愛人であり自身も彫刻家であった。この話も始めはロダンと愛を育んでいたクローデルが次第にロダンから突き放されるようになり、それでも求め、愛憎の中で精神を崩壊させてしまうのだ。因みにアニメのカミーユも同じく精神崩壊する。この二つを例に取ると、現代のストーカーとあまり変わらないようにも思える。というかストーカーそのものかとも思えてくる。先日、痛ましいストーカー事件が起こった。私はその事件の特集を見ていて本当にやるせないものを感じた。事件をどうにか防げなかったのか、番組でも検証していたが、とても難しい問題なのだと知った。しかし、最終的には、

ストーカー行為する者を究極、救わねばならないという苦渋の決断が必要なのかもしれないということだった。では、ストーカーは巨悪なのだろうか。そうであるとしか言えない。だが、ストーカーする者を救う手だてはある。

アデルやクローデルは決して悪の人間ではなかった。にも拘わらずストーカー的行為に走ってしまった。求めたものは愛という善の形なのだ。

そこに人間の狂気の姿が見えてくる。愛という善を求めるが故に狂気を孕んでしまう。これは人間の業の深さである。狂気というのは人間の愛の姿の究極なのだ。

ここで私の感じている狂気を述べる。私は、常に狂気と隣り合わせだ。病気がそうさせる。脳がまともに動作しないせいで無理にまともであろう正気であろうとするから正気を追及しすぎて結局、狂気に向いてしまう。

ならば、私には、狂気という結末しか残されていないのか。

それも違っている。私はここに於いてこの場において、狂気を論ずることができた。

それはつまり、始めに述べた客観性を持ち合わせているということである。

客観性といっても怪しいものだが、それでも言葉化することができるということは、少なからず人の範疇である。ベルセルクにはなっていない。

結局狂気と正気は、表裏一体、背中合わせの関係なのだ。

狂気を孕むものは正気であって、正気を強く求めれば狂気に向かう。

人間というものは、その危険な天秤の上でどちらかに傾いたり、倒れたりする。

願わくば正気と狂気を司る天秤を壊すことなく重石を積み上げていく、

そうすることで、人間としての使命を全うしたい。狂気に溺れることなく正気に拘泥することもなくカオス的な心の中で言葉を紡ぎあげていきたい。