朱乃紅スキゾ日記

管理人朱乃紅の統合失調症の闘病記、雑記

人間を保つ

私達統合失調症患者にとって人間を保つことはとても難しい。

常に狂気と隣合わせなため、人格を安定化させることが困難だ。

しかし、それでも生きていく以上、社会ではそれが必須条件だ。

放っておいたら私達は、崩壊の道を歩むことになるだろう。

どうしたら人間を壊さないように生きられるか。もちろん、最初にこの病気になってしまうことを予防しなくてはならない。私は、それができたはずだが、ちょっとしたタガが外れたことで一気に奈落の底に落ちてしまった。悔やんでも悔やみきれない。あの時の私はもう戻らない。だが、生き返りという方法がある。それは、新しい人生を生きることだ。統合失調症の人生を生き直すこと。例え病気があっても新たな自分を取り戻すこと。私は、どうやってここまで生きながらえてこれたのか。

それは、凄まじいエネルギーの消費が必要だ。壊れゆく心に対峙し、新たな価値を創設する。私がそれをできたのは、アニメーションがあったからかもしれない。

私は、それほどのアニメを消費してきたわけではない。しかし、私に備わった二次元との親和性は、私を繋ぎ止め正気の自我を保ってくれた。セクシャリティ的にも私は二次元との相性がいい。変な話だが、それは精神分析的かもしれない。

私のバイブルである『機動戦士Ζガンダム』は、主人公カミーユ・ビダンが最後に精神崩壊することで幕を閉じる。だが、私にとってその最後は、救いだった。カミーユが全ての悪意を吸い取って自分を壊してしまう。まさに聖者の如き行いだと思う。

私は、自分をそこに重ね一体化したいと思ったが、それは、危険なことだろう。そして私もカミーユと同じく、自我を壊してしまった。皆殺しの富野。救いのないラスト。そう感じる人もいるだろうが、カミーユの自我は壊れてしまっても、その魂だけは、生き残る。続編の『機動戦士ガンダムZZ』では、カミーユは、ファ・ユイリィの助けもあって回復して行く。『新約 機動戦士Zガンダム』では、カミーユは崩壊しない。悪くはなかったが陳腐化してしまった。そうして、私はアニメーションがあったことで自我を繋ぎ止めることができたのだと思う。そして、アニメとの繫がりが人との繫がりともなった。今、友として繋がっている人たちは、ほとんどアニメが好きということで仲良くなった人たちでもある。

アニメ以外に私を保つことを促してくれたものはなんだろう。

思索である。常に書き続け、時に読み思索を続ける。それを支えてくれたのは、白い大学ノート。私は、このノートに自分の思いをどれだけ綴っただろうか。百冊は下らない。無為なこと、無駄なこと、そう思っても書き続けた。ハイパーグラフィアほどではないが、書くことが私の生きる原動力だ。今は、こうしてブログがあったり、スマホの日記帳があったりするのでいつでもどこでも書ける。それは便利なことだ。

あまり書くなとかつて私の主治医は言った。だが、書かなければ、私は自分を繋ぎ止めることができなかっただろう。

他に大切なことは、苦しくても仕事を続けること。介護を含めれば二十年近くは働いてきた。かなり重い症状の頃から働くことは続けていた。

それは、統合失調症としてとても困難なことだと思う。しかし、それをやったおかげで、私は社会との繫がりを断つことはなかった。もちろん仕事をすることが困難な人も多くいるだろう。だからデイケアや就労支援施設などに通うことも大事な手だ。

とにかく、他者との関係を断つことは楽なようでいて一番辛いことにもなる。一人でいれば傷つくこともないし、誰かを傷つけることもないかもしれないが、人間にとってはそれが最も辛いことにもなりかねない。私は、デイケアやそこで会った人たちにとても助けられている。

では、病者やそうでない人もどうやってこの人生という荒波を越えていけるのか。

それには、オリジナリティが必要だと思う。私は、時々サークルで小説を書くが、ほとんど何かの引用だったりオリジナリティが無い!と言われても仕方がない。しかし、私の思索は自慢ではないが自分らしさを持ち続けている。そう。小説でなければ、誰にだってオリジナルの考え方は作れるのだ。しかし、それが時には自分を縛り付け、凝り固まった考えに陥ってしまうかもしれない。そんな時私は、認知行動療法精神分析を読む。精神分析は、統合失調症の患者には禁忌と言われているが、知識として学ぶことならばとても興味深い、面白いものだということがわかっている。ラカンの入門書を読んだ時も精神分析の目指すところは特異性とかいてあった。つまりは、自分だけの独自性ということだろう。認知行動療法は最近取り入れた療法だが、これはとても役に立つ。思索というより実践だから即効性がある。私は、私の独自性としてこの二つをミックスすることが大事だと認識している。ともすればこの二つは相反する。しかし、折衷すればとても自由度の高い深くて広い技術体系になる。だから私はこれを学ぶことを続ける。

そんなことを続けて私はなんとか人間を保っている。まだまだ書きたいこともあるがこれ以上書いても蛇足になってしまうだろう。

またどこかで振り返るときこんなことを綴っていくかもしれない。