朱乃紅スキゾ日記

管理人朱乃紅の統合失調症の闘病記、雑記

今日日的考察(言語)

こんにちわ!今日は、昼から日記を更新です!

昨日は色々とヘビーだった!夜中中考えて、出した答えは、、、。

言葉です。言葉によって人はいくらでも変わりようがある。

哲学でも、言語分析は色々とされてきたみたいだけれども、

私が今日話す言葉についての文章は、そういった諸々の雑学と

日常で考え抜いた、言わば私流の言語哲学です。

そうだね、では出した答えが言葉、言語であるならば、

そこから何が導き出されるのか。それは、言語が言語を生み

そのまた言語が言語を生むといった永遠に繰り返される負の言語のスパイラル

を打破することが自由を獲得する道だという答えである。

なぜ、言語のスパイラルを断ち切ることが必要であるか。

それは、言語によって拘束された自我がそれによって規定され、

がんじがらめになって結局自分の首を締めるだけの無意味な連鎖だからです。

では、その実践を言語で書き連ねている自分は何なのか。

矛盾でしかない。その通り。だが、結局言語を打ち破るものは言語しかない。

ならば言葉を尽くすことで、その螺旋階段を壊すことができるのか。

否。私はそう思う。ならばいかようによってそこから脱出できるのか。

恐らくそれは、身体だと思う。モーリス・メルロポンティという人が

身体性の哲学を考え、身体は、思考するより先に行動する様式を持っていると

言ってるようだが、私もその考えに大いに賛成する。私は、統合失調症患者だがそれ故、思考活動に様々な制約を受けている。

だが、そんな私でも日常を生き、なんとかかんとか少ないながらも働いて

収入を得て暮らしていけるのは、身体があるからである。

体が栄養を欲する、だから私は食べ物を食べる。性欲が起きるだから処理する。

欲望が生まれる、だから私は求める。欲望自体を私は、身体を持つが故のものだと理解している。そういうことで、私が考えられる言語のスパイラル、特に負の言語のスパイラルを打破するためには、身体に従って行動することが何より大事なことなのだと感じる。身体は時に思考を凌駕する。だが、身体に従って動くというのはただの動物と同じではないか、欲するものを欲し、欲望するままに動くというのは畜生と同じであると考えがちである。

だが、それは否である。人間には理性というものがある。理性は本能のままに動く人間にブレーキをかけてくれる。理性のブレーキは人間を動物とは画するものにしてくれている。だが、それゆえに人間は自分を滅したり、非難したり、苦しめたりする心が働く。心理学でいうところの自動思考(勝手にどんどん悪い考えが浮かぶ思考)というのが働くことが多い。確かに、めちゃくちゃポジティブな人がいてなんでもかんでも自分のいいように考えられる能動的で強い人間はいるにはいる。そういう人に考えるのをやめようよと言ってもあまり意味はない。

けれど、私たちのように心に病を抱えていたり、何かしら心のトラブルを持っている

人間にとって考えることは毒にもなる。そういう自分に必要なのは、自動思考を止めることである。自動思考を止めるというのはどういうことか。それは可能なのか。

ある程度可能である。考えないと反芻して、徹底して考えないようにするのである。そうすることで私は大分自分の恐怖心を制御できるようになった。

それが、先程の言語のスパイラルやそれを打破する身体性とどう繋がっているのか、言語は考えれば考えるほどその螺旋構造を強固にしていく。すると抜け出られない自体に遭遇していく。そこから脱するには思考を停止して身体の動きに委ね、つまりメルロポンティが述べているような、考えずとも行動できる様式に任せるのである。だから、結論としては、我々がすべきことは、まず考えるより先に行動せよ、ということである。それが、言語の世界にがんじがらめになった自分を解き放つ方法だ。こうして私が駄文を書き連ねていることは、結局は、言語のスパイラルを形成しているのではない。人間が生きていくために必要な社会的な活動でありオートマティックな活動なのだ。つまり私は、社会的動物的に文章を書いている。決して機械的ではないところで、生命としての役割は果たせているのではないかと、勝手に納得して、今日の考察の結語とする。